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2015年6月24日 (水)

犬山市歴史講座(3)講師 会長 小嶋 毅 「松山義根と八代六郎将軍」の講演を終えて

    講演の内容は、1. 松山家の系譜 ここでは後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の

    中興に失敗し、南北朝対立の中で、楠正成が敗北し、この南朝の残党の中に松山

    一族はあった。落ち武者として尾張に落ち延び、土着した十人衆の一家であった。

    江南市の曼陀羅寺は後醍醐天皇の勅願寺でここの塔頭の修造院を松山家は菩提

    寺としていた。曼陀羅寺は南朝の滅亡とともに衰退し、荒廃した。寛正3年(1462)日

    輪山曼陀羅寺として再興した。松山家は曼陀羅寺の寺侍をしていたとも言われてい

    る。江戸時代に楽田村に移り、雌雄蔵院の末寺である小西寺に菩提を移し、現代に

    至る。

    2. 松山義根の事跡  義根の父庄七は相撲好きで、剛の者であった。其のエピ

     ソードを披露した。そんな父とともに、元治元年(1864)第一次長州征伐に参戦して

    いる。慶応4年(1868)若くして磅磚隊と称する勤王団体を犬山藩主に誓約書を出し

    て結成した。戊辰戦争の官軍に参戦し、上野で彰義隊と戦い、右耳を負傷した。

    磅磚隊の監察方の八代逸平が重病になり、独り者であった彼は養嗣子を義根に頼

    み、弟の六郎を養子とした。その後義根は青少年の教育に熱心に取り組み、小学

    校長や村長、県会議員、丹羽葉栗郡長、ひいては衆議院議員にも立候補し、当選し

    ている。しかし、貧しい人々には惜しみなく、金品を提供したり、選挙には山林や田

    畑を惜しみなく売りはたいて、二回目の衆議院議員は立候補をあきらめている。

    3. 八代六郎の事跡 彼は万延元年(1860)楽田村に生まれた。明治元年に八代

    逸平の養子となり、病床の枕元で養父からの指導と養父の遺言書からいろいろ

    感化され、海軍兵学校に入学し、また、教え通り、英語・ロシア語など外国語を学 

    び、その出世ぶりは年表に示した如く、素晴らしいものであった。また、いろいろ

    エピソードがあり、それを披露して将軍の人となり、人間の器の大きな面など、明治

    の軍人のありようを「書簡集」や揮毫などを示し、解説した。特に歴史に残っている

    のは、海軍大臣としてシーメンス事件の処理をしたことであろう。従2位、旭日桐花大

     綬章、男爵という出世は異例ではないかと思う。質問の時、現代人の目から見ると

     軍国主義の最たるものとして批判がある。それを美化したこの講演は少し、時代

     に逆らうものかもしれないが、将軍の人間性には魅力を感じざるを得ない。この二

     人は犬山市が生んだ最高の英雄ではなかろうか。

 

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